こころのノート(物理)

こころのノートではありません。

母との軋轢

好きな人も嫌いな人も、大好きな人も大嫌いな人も家族も友達も私もみんなみんないつか死ぬ、死ぬ、当たり前だけど。

 

母親には、昔から自分で言うのもなんだけど、複雑な感情を抱えている。昔は本当に嫌いだった。本当に。

幼い頃は恐怖の対象で、全ての行動は母に褒められるかどうかで価値が決まった。母に褒められるなら何でもよかった。でも出来が悪く要領も悪くかと言って他人を蹴落す程の強気さも無かった、し、今なら納得出来るけど多分病的でない程度の発達障害も出てたから、本当にイライラさせてばかりだった。怒られる日々。今よりも1166066902574倍くらい余裕の無かった母はしきりに私を奮起させるために他人と比べた。競争心の低い私はその結果悔しがるのではなく比べられた相手を内心で嫌い続けた。クズの人格は立派に育ってたんやな()母の口から友達の名前が出るだけで嫌気がさした。どう考えても私はあの子にはなれないのに。今よりも125856857566888倍くらい体力のあった母は怒りもパワフルで怒鳴ることも叩くことも髪を引っ張られて1メートルくらい室内を引きずられることも普通だった。イライラさせる天才の私が悪かったことがほとんどなんだけれども。

死ね、も、殺人が犯罪でなければあんたなんか何回も殺してる、も、産まなきゃ良かった○○ちゃんが子供ならどんなに幸せだったか、も、だいっきらい、嫌い嫌い嫌い、憎い、も、何度も言われた。(ちなみに、これらが普通ではないと知るのは相当後になってからである)(死ねはどこの家庭でも一度は言われてるとマジで思ってた。中3くらいまで。)

全部覚えてる。水かけられたことも、仏壇の前で首締められたことも覚えてるよ。

昔から、大量に娘にお金をかけてくれる親だった。大事にされてる。のに、怒るとそれを全部無駄だったと、私に突き付けてきた。怒ってない時に言う「可愛い」「大好き」と怒ったときの「死ね」はどちらを信じればいいか分からなかった。いまでも、怒ったあの言葉は間違いなく母の本音の1つであると思っている。

小学校の頃の私はいつだって病気になりたかった。今でこそ超がつく健康優良児だけど(受験が終わった中学あたりから急激に健康になった)幼稚園~小学校の私は病弱で、小学生高学年でもこじらせた風邪を一年に一回はひいてた。その時の母の優しさを知ってた。怒られないし受験勉強しなくていいしその間は○○ちゃんがどうとか話さないから。だからずっと病気になりたかった。

 

母の他人の子供と私を比較癖は中高が一番酷かった。ほぼ毎日してた。自分で言うのもなんだけれど、小学生の私は受験勉強のおかげで一応成績がよかった。自分のところのクソ雑魚公立小学校程度なら1番の自信があった。あ、全国だと普通に負けます普通にクソ雑魚です底辺です()だから比較されたところで「は?私の方が頭いいですけど卍」って感じだったけど、まぁ塾単位ではバンバン比較されてたんでアレですけど(塾には普通に頭おかしいレベルの秀才がゴロゴロ居る)

受験が終わって無事に学園に入り、私が明確に勉強を辞めた頃から、母はありとあらゆる私の周りの真面目で信心深い友達や知り合いを比較し始めた。気持ちはわかる。わたしも流石にあの頃勉強しなさすぎたなって反省はしてる()けれど自分がいちいち否定されていって、学園生はこうあるべき、人生こうすべきって感じで嫌だった。

 

それでも、当時はこれらの事で鬱になりはしなかったし、いつ死んでもいいやとは思ってたけども今みたいに明確に死にたいとは思ったこともなかった。中高生の時なんかは反抗心ばかり強くって小学生の頃は恐怖だけど中高生の頃はイライラ〜って感じで、高3あたりから急激に劣等感に塗れるようになっててそれまで超健全だった。それより前も色々思ってたのかもしれないけど覚えてないし。すまんな、幼少期の私、すまんな。頭悪いんや。

 

蓄積された黒いものが、大学に入って爆破して、大学生活も一人暮らしもうまくいかなかった頃に無事相乗効果となり鬱になったわけだけど。その頃から今まで言われてきたことが全ていきなり殴りかかってきたような感じだった。

どれだけ中高時代に比べられようとも、最低限の成績を守りちゃんと学校に行って卒業した。それが、大学に入ったら当たり前にできなくなった。人並みのことが出来ない大学に行けないまともに生活できない夜寝られないバイトが出来ない。全部だめだった。母が昔比べてきた子を見たら全員出来てた。昔は「私はあぁはなれない。けど私は最低限のことをしてるし私は私でやっていく」と思ってたけど、私はその最低限すら出来なくて、私の数万倍大学に馴染んでて、そこから母の昔の言葉がリフレインされて、完全に悪循環だった。

 

すべての疾患が分かってから、母は昔の事を謝ってくるが、私には許すことも何も出来ない。私は当時鬱にならなかったんだし、今鬱傾向にあるから(実は鬱病ではない。気分変調症とかいうらしい。軽くてよかったね!)気になるんだ、と思うんだけれど、悲しいことに病気とかそれ以前に母の言葉によって私の自己肯定力がかなり築かれてることに最近気付いた。これはもう、中高のあたりから思考回路としてばっちり組み込まれてた。しゃーないしゃーない!!だから許すとか以前に個人的にも許したところでもう性格がこうなってしまったんで…ちょっともう…遅いかなって…って感じてしまうし、そういう意味では本当に今更どうしろってのよ!と許せなかったりする。いまでも時々、「昔そっちが言ってきた事やろ」と詰ってしまったりする。

 

つい最近もやってしまった。

酒にめちゃくちゃ酔ってて、帰り道の電話で意味不明な問答の末、過去のことを掘り返してグダグダ言ってしまった、らしい(本当に情けないことに全く覚えていない)

次の日、母が入院した。電話の時もちらっと体調のことは言ってたらしいが(その時は入院とは母本人も思ってなかった)酔っててなんも覚えてない。最低である。当然だが父は怒ってたっぽい空気出てた。本当に当然だが。

入院したって聞いて、めちゃくちゃ反省したし禁酒が頭をよぎるレベルには反省した。と同時にもし今後母が死んだら迷わず私は死ぬなと思った。自責の念に駆られて死ぬなと。

 

こんだけ色々書いといてなんだけど、母のことは嫌いじゃないです。というか、ここまで色々してもらってお金かけてもらって謝ってもらって、嫌いだと言えるはずがなかった。思えるわけ無かった。母が私を昔から愛してくれてることには変わりないし、本当に。昔はちょっと方向性ミスりすぎてた感じだけど。近年マジで過保護すぎる優しい母だからマジで(どこから目線??)俗に言う過干渉というやつです。

 

じゃあ好きですか、と言われるとそれも頷けるような気はしなくないけど、いや頷けるんだけど母の今までを許せはしないし、やられたことは全部覚えてるからな〜というクソ根暗陰湿野郎の考えしてる。

家族というものが根本的に苦手なのかもしれない。実は家族ものは本当に苦手。特にノンフィクション。ちなみに好きですかと言われて嫌いじゃないけど素直に頷けないのは妹です。本当にすまん。お前は悪くない。本当にごめんな。方向性の違いやねん。嫉妬の塊やねん、許してくれ。いつか本当に好きになるから…

 

家族だから好きとか嫌いとか、そういう問題でもない気がするのだけれど、もうなんていうか、分からない。好きなはずなのにトラウマというか。好きとか嫌い以前に死んだら私も死にますみたいな所はある。向こうはそうではないと思う。もっと素直に「家族大好き!」って言える人間に、健全な人間になりたかった。

 

とても親しい人が「肉親のことなんてそうそう嫌いになれない」と言ってて、私はそれに否定は毛頭するつもり無かったけど、肯定も出来なくて、なんていうか、こんな人間性ですいませんという感じです。ほんっとすまん。

 

ここまで母が死んだら云々言ったが、おそらく死にはしない、と思う。(なんやねーーん)が、そんな軽い症状で入院した訳ではなく、むしろ重い方で、死にはしなくても後遺症が残る可能性は全然ある。

 

「祈ってくれ」と言われて、ゴミクズ娘だから母のことは心配だけど、宗教と向き合えなさすぎて泣いてる。学会やめたいとかじゃないの…心配もしてるの…ゴミクズすぎて泣いてる。

「あんたは自分の事じゃなくて母親のことなら祈ってくれる?」と聞かれて、ゴミクズ娘だから「その聞き方は辞めてくれ」と言った。「自分の事だから祈れるとか母親のことだから祈れるとか、そういう話ではなく、祈るという行為自体への疑問というか、倦厭感がある。そういう聞き方は辞めて」と。ごめんなほんとごめんこんな自分に嫌悪しかないんだけど、私の4年間を思ったら仕方ないと思ってほしい。仕方なく無いけど。

何か悪いことが起きると「みんなで祈るための試練」っていう考えが苦手なんだ。私が祈れなかったからって私に何か起こるならまだしもそんな、家族のうちの誰かがってリスク大きすぎて責任負いきれないですって思っちゃうんや、そんな試練の負わせ方ないやろ無慈悲かって思ってしまう。家族人質みたいなもんやんほんと責任負えませんゴミクズ娘で本当にすまん。とはいえ、母に頼まれたらやるしかないです(「聞くのがダメならなんて言えばいいんや」と言われて「普通に祈ってって言ってくれたらいいです。天秤にかけるような問いかけはやめてください」と答えたゴミクズ加減。本当に死んだ方がいいと思う。家族のためにも。)ちゃんとやるから…ほんと…

 

他人に胸張れる人間性になろうなって思った。無理くさい。とりあえず母とのことはなんとかしよう。あと仏壇の前に座ろうな。

健全に自意識過剰

前前からずっと、ずーーーっと考えてたんですけども。

私は本当に自分が他人にどれだけの影響があるのか全くわからない。良い方も悪い方も。

私なんぞは本当に、部屋の隅っこの埃みたいなもんで、そのうち忘れられるし他人に何かしらの影響を与えてる訳ないし、与えられた役割をこなすことに意味はあっても、私そのものの影響力は何も無いというか。

 

この話をすると、必ず「自意識」というものとの付き合い方の問題になってくるんですが

要は自意識過剰な人間で居たくないって話で。人の目や世間の目が気になって仕方なくて、今よりも10倍くらい悪い精神状態で生活してた2年の頃、それに対して「大丈夫、メンヘラは自意識が肥大するから」と優しく言った知人が居た。彼は彼なりに私を許容して言ってくれた優しい言葉だったのだけれど、馬鹿な私はそれまで自覚がなかったから、その時初めて自分が自意識過剰な状態にあると気付いてめちゃくちゃショックを受けた思い出がある。彼は悪くない(が、後々彼と知人としての縁を切ったことは明らかに私にとって良きことだった。と思う。いつか機会があれば仲直りしたいかもしれない。今はいい。)

 

その時から、私はこれ以上自意識過剰ではあるまいと努力しようとしたのだけれどまぁ無理だった。自意識というか、自己顕示欲が強すぎてそれが自意識過剰に繋がってるようにしか思えないし見えない。自己承認欲求たかいたかいおばけには難しすぎる問題だった。

 

せめてもの抵抗として、他人へのアプローチをこねくり回して考えてた結果まぁこれは完全にミスだった。と思う。一言で言うとぼっちが加速した。もともと持ってた思考に拍車がかかった。大学生活でもトップ3に食い込む敗因だと思う。ちなみに1位はメンクリ通いです。これが一番のクソ。やめたい。最近行ってない。このままフェードアウトしたい。

 

特に深い理由は無かったんだけど、なんとなく1:1のLINEから目を背けて(本当に深い理由はなかった)て、毎日LINEのやり取りしてる人にほぼまる二日返信しなかった。いや、反省はめちゃくちゃしている。なぜ返信しなかったのか、じぶんでもよく分からない。ストレスは特に溜まってない。恐らく、というか確実に「後回しにする」悪癖が出てた。もうすごく反省している。結論から言うとめちゃくちゃ心配されてた。ちょっと(と言っても二日)(竜宮城の住人の様な時間感覚してた)見てない間にめちゃくちゃ心配されてた。

「ガチで死んじゃったかと思った」と言われた時に、傍から見た私ってそんな精神衛生悪いん??とびっくりした。個人的には大学生活始まって過去最高の精神状態です今。メンヘラに造詣が深くない人からしたら、たしかにそう思っても仕方ないのか。そこまで心配される要因とは思ってなくて軽く扱ってたわマジでごめんな。すぐ死とか思うけど私みたいな奴ほど長生きすっから。あんましたくないけど。40くらいで死にたい。(とか言うやつほどマジで長生き以下略)

ほんとやきもきさせたみたいで、申し訳〜〜!!!って感じだったし、でも私が二日返信しなかっただけでそこまで色々考えられると思ってなくて、マジでなんか、びっくりしてしまった。私が思ってるより私は他人の感情に関与出来るのではと思った。真偽はわかんないけど。とにかく、謝ったしなんでそんなに頑なに返信しなかったのか分かんないくらいLINEは心地よかった。マジなんでしなかった?????

 

こうして他人にマイナスの感情を与えて存在価値を得る(別にそういうつもりでやったわけじゃ断じてないけど、得てしてそうなってしまった)のは本当に辞めたい。こういうことしてると本当に友達減る。事実減った。でも自惚れても居たくない。私という存在が他人に良い影響をもたらすなんて自惚れた自認を持って生きていたくない。そんな高尚な存在ではないのだ私は。ただ、この考えを持っていると確実に周りから人は居なくなる。つらい。

 

結局、「健全な自意識との付き合い方」って事なんだろうけど、それってなんなんだ?みんな自意識君とどんな付き合い方してるの????恋人?友達?セフレ?家族?絶縁…は無理だろうからないと思うけど。韓国からの2時間半の飛行機内をこれ考えて過ごしてたって言ったら笑われました。

こいつ(自意識君)とのズブズブの関係♂のせいで割と自分で自分を生きづらくしてる自覚はあるので、早急になんとかしたい。目指すはSNSでキラキラな友達との自撮りを上げることです。一生無理な気がしなくもないですが()

 

卒業シーズン

ですね。私は卒業しませんが() 

 

同期が卒業に伴い「全力でやりきった」「最高の4年間だった」と呟いてるのを見るたび勝手に病む日々です。クソみたい。私はあと一年どう頑張ろうがそうはなれない。4年間はどう考えても後悔しかしてない。唯一やりきったのは最近の卒業公演くらいなんじゃない??

 

卒業公演、終わりましたね。えぇ、終わってしまいました。まさか学生生活最期の演劇(になることでしょう、おそらく)で、しかも所属外の部活の公演で、あんな大きな役を頂けるとは思ってなかった。セリフ量も自己最多。初めて台本読みして血の気が引く感覚を覚えましたね!!!()

 

好き嫌いの分かれる台本でしょうが、私も最初はハァ?って感じだったんですが。みんなで考えて、自分で考えて。今でも役のこと、台本のことを考えるとズブズブと思考の沼に陥る。いい意味よ。

むしろ、稽古してた時は読み方とかそういうアプローチ込みで考えてたから(それでも全然できてなかったんですけど!!)終わった今では純粋に、自分の考えたいことだけ深く、深く。台本の話に直接関係無いことだったりね笑 でもそんなことを考えるうちに、なんとなく、やってる間もぐっと近くなった役が、どんどん染み込んで行くような錯覚。 

 

この間、八王子から東京の電車に乗ってる時、新宿を過ぎたあたりから見えた沢山のビルになんとなく目を奪われてしまった。彼らは新宿のような所に居たりしたのかな。そのビルから、ゆっくり。まっすぐと。落ちたのでしょうか。その時は、なんとなく彼らの不安定さが新宿に似合うような気がして、新宿だ、なんて思ったけど、今思うともっと所帯染みたところなのかもしれない。なーんて。結局、まっすぐだなんて思ってたのは本人だけで、周りからするとなんとも不安定なフラフラとしたものだったんでしょう。それを、彼は最期、理解したのでしょうか。

 

私の役は、ほんとに、表面は一人で生きていけても、本質はひとりじゃダメなんだろうなと思った。人間だよなぁと思った。いやまぁ、みんな人間なんだけど()周りだけ取り繕っていざ中身を見ると自分の意思がスッカスカで思考こねくり回してブレブレな感じはとても親近感覚えた。私もそっち側だよ、お互い上手くやろうなってかんじ。

 

こんなに台本のことぶちぶち言ってるけど、私は単にもう卒公稽古が懐かしい。恋しい。いやあのみんなで思考の泥沼にハマる感じはとてもしんどかったけども。答えのないシーン練とても辛かったけども。やっぱりやっぱり恋しいあの日々。稽古中はもう嫌だはよ終われと考えてた時もあったのに小屋入りして装置設置した瞬間もう、終わって欲しくなくなった。なんで舞台ってあんなに一瞬なの。終わるな、終わるな、私まだまだ伝えたいこと伝えられてないって思いながら気が付いたら終わってた。舞台には魔物が住んでる。本当に。すごい空間だ。

 

普通に卒公メインの話になってしまった…笑

ほんとにもー卒公メンバー好きすぎて好き。大学辞めようと本気で考えてた時もあったけどまーーじで辞めないで良かった。と思った。大学生活クソだけど、舞台祭で縁作って、劇団参加して、その甲斐あってか参加させてもらえて。それだけでも大学生活意味があったかもしれない、と思える。それだけの時間だった。まぁそれでもやっぱり大学生活に悔いは残りまくってるんですが。

人との縁を繋ぐより壊して来た方が多いような気がした4年間だったから、誘ってもらえた時本当に、うれしくて、私でも作れてる縁が、切られてない縁があったんですね。

 

卒業する訳でもないのにめちゃくちゃ卒業ぽさ出してるけどまだ一年あるしなんなら就活あるし死にそう。就活じゃなくて終活したい。大学振り返りは今度やる。来年やってもいいけど多分来年やったら大学1、2年の頃のこと綺麗に忘れてるやろなぁ()

 

自己加害

が、嫌いではない人間でした。

 

なんだろう、どう頑張ってもファッションメンヘラの戯言にしか聞こえないのでもうそこは割り切って言ってるんですけれども。世の中のそこら辺にゴロゴロいるファッションメンヘラだと思って頂いて結構です。私の中では完結してる出来事だから。

 

自己加害は嫌いじゃない、というより躊躇いがなくなってしまった。と言っても度を越すものは嫌ですけど。縫うほどの怪我とかそういうのは嫌です。ここらへんがファッションじみてますが、まぁ許して。

酒も煙草も好きです。酒はまぁ普通に味が好きって言うのもありますけど。自傷、と言われるものの代表的なアレも嫌いじゃないし、もうひとつのアレもわりと常習的にやるタイプの人間です。だから、自己加害が好きなタイプなのかなと思ってました。

煙草は昔やってたんですけど、味が酒ほど好きではなかったこと・そもそも大学全面禁煙で吸う場所が少なかった上に金がかさんだことから面倒くさくなって辞めました。が、最近、ちょっくり舞台稽古で小道具でいじってたら吸いたくなっちゃって、吸ってみた。メンソールタイプが好き。酒飲んで吸う煙草は美味しかったと吸ってみたけれど、昔ほど本当に美味しくなかった。半分ほどで消してしまった。昔は美味しかったけれど吸った後の虚無感は凄かった。今は煙草を無駄にしたかの如く不味いとおもいながら吸って消しても悲しくは無かった。どんぐりどんぐり。

自己加害も言うほど好きではなくなったということかもしれない。よかったね。

どうでもいいですが、昔吸ってた頃にハマらなくて本当によかったと思った。オーストラリアは煙草の規制が厳しいし高いし。すげぇ不便だと思った。私の仲良くしてた友達は何故か(日本人もそれ以外も)喫煙者が多くて、何かと苦労してた思い出。みんな安いからって手で巻くタイプのタバコ吸ってたけどこれがまぁ不味いのなんのって。個人的にはあれ吸うなら煙草はやめる。それくらい私の口には合わなかったね。

 

何か変わるようで何も変わらないと言いましたが割かし嘘でしたあれ。結構変わりました。自分の出力量は本当に少なくて、人を不快にさせることしかできないと思ってたんですが、そうでもないのかもしれないと最近思った。きっと何を伝えたいかなんだろうなぁ。

今やってる稽古、今回の私の役はとことん振り回される役。「言いたいことを言わなかった。それでいいと思ったから。」といったスタンスの相手に振り回される。「分かったことにした」「それの何が悪い」という考えはわかる。とてもわかる。けど最近、分かるけどそれはあまり良くないんじゃないか、と思えてきた。ケースバイケースとも言えるけど。きっと言った方がいいだろうね。でも気持ちはわかるよ、うんうん。

 

どうでもいいけどふと、今メルボルンのフリンダースステーションのトラム駅近くを思い出した。もう細部まで思い出せる。懐かしい。帰りたいような帰りたくないような。語学留学行く上で、成功する秘訣は「母国の居場所をゼロにすること」だとなんとなく確信してます。私にとってね。帰る場所が無いとそこが最高だと思えるので。実際友達も作れたし一人で満喫してた。うん。最近、日本で(大学ではない)居場所がいくつか出来てしまったから、ちょっと意志薄弱になってる。良くないね。普通に語学は好きだからがんばろうね。うん。

紀伊国屋行ったけど欲しいもん無かった

お互い様々、こじらせてる友達と話してたんですけど、「私たちが欲しいものが今手に入ったとして、私たちの考え方が変わらないと救われないのでは」という結論に至りました。本当にそうだと思った。どうも。

 

世の中明るくなるようでならないし、なにか一つや二つ自分の中で変わったって何も変わらないし

結局自分の思考回路が変わらないと世界は変わらないから、 世界なんて個人の思考回路の集大成だし自分以外の思考回路なんてどうでもいいし、でも誰かの思考回路に頼らないと(参考にしないと)自分だけで勝負するのはあまりに頼りないから、宗教や倫理学が存在するんだろうなぁって思った。最近、好きで見てるコンテンツの人が「倫理学は偏差値80位の人が考えた云々(省略します)」言ってるの見てわらった。たしかにあれは偏差値80位の人たちの考えだわwww

宗教にしても倫理学にしても、主観の塊だとは思うんだけど、宗教に関しては色々あったせいで(いや大したことは何も無いけど)向き合うというか、取り組むのにもう少し時間が要る。大学が嫌いでも私(宗教)のことは嫌いにならないで下さい!!むしろなるのはおかしい!!(前○敦子ボイス)みたいなことよく親に言われるけど、普通に無理な話なので普通に時間ください。ってことでまずは倫理学ちゃんと勉強したいなって思った。自己肯定しかしないタイプの人間(自分に都合いい人間)なので、自己犠牲系はきっと理解出来ない。突き詰めたら功利主義は自己犠牲になるって聞いたことがある。私は利己主義なので無理です。クズです。倫理などやるべきではない人として当たり前の道徳を学ぼうまずは。やめよう。やめてやるよこんなものーッ!!!(ギャグ漫画日和)

 

最果タヒさんの詩集に「世界なんて数億年で作り直せるんだから、君が死ぬ必要なんてない」っていうかんじの内容の詩があるんですけど(原文ママでは無い)(詳しくは「死んでしまう系のぼくらに」に収録されてる「絆未満の関係」を読むべし)私はそういう気持ちで生きていきたい。私は世界のために死ぬつもりは無い。死にたいって時はどこまでも自分のことしか考えてないので。そもそも自殺に意味を見出すこと自体無意味というか、どんな人だって結局は自分の事しか考えてないわけで。自殺した人に「先にいきやがって、汚ねえなぁ」っていう表現を見た時、本当に意味ねえなと思った。綺麗な死に方なんて老衰や病死以外この世には存在しない。綺麗にこだわる美学は無いけど、元が汚いだけにこれ以上汚くなりたくはねえなって気持ちくらいはある。

 

何か、変わるかと思ってました。本当に。変わったけど、変わらない。罪悪感だけはあります。正直に生きて、さっさと見切りをつけられたい。

はよやれや、あくしろよ

頭の中がぐちゃぐちゃしてる時は、中身をぶちまけるに限ると思った。

 

昨日嬉しい、嬉しいことが起きて、なんだかほんとに、これ現実?ってかんじだったんですけど、どうやら現実のようです。酒の酔いでも薬の幻覚でも無いようでした。やったね。

 

誰かに存在を肯定される、というのはまぁ当たり前だけど初めてではないし、私の友達はみんな優しいから。何かと相手をしてくれるのです。

 

二年前の自分がどんなだったかってなんかもうあまり覚えてないんだけれど。あ、でもあそこらへんが一番大学の成績は良かったな。たしか奨学金が貰えるかどうかの危機だったから()前期だけの短い命だったけど()あ、フランス語が楽しかったですね。

 

まぁ、なんていうか。当たり前のことをやってそれで自分褒めてを繰り返してた、これは今もだけど()バンクーバー行って未来が見えたようで見えてなかったみたいな。後期は躁鬱の躁みたいな(いや躁鬱じゃねえけど)ことになってたようななってなかったような。いやたぶんなってたな。3年で落ちたもん。色々と。

 

覚えてないってことは思いださなくていい事なんでしょう。ろくに何も覚えてない大学生活ですし。だから来た意味も居た意味も無かったしどこに所属しても最後までちゃんとやりきれないまま迷惑だけかけて、周りのようになれないまま終わったから、所属した意味も無かったんだと、思ってたけど。

自分でもクソだと思ってことを、自分の知らない所で見てもらえててそれを認めて貰えてた、みたいな。そういうことがあって、無意味じゃ無かったって、初めて思った。私の大学生活、まだ終わってない(というか卒業をかけた大仕事が一年分残ってる死にそう)けど、どうやら今までの分は無意味じゃなかったようです。

 

私の腕は、本来なら辛かった証とか、そういうものなのかもしれないけど、なんかそんな高尚なものではなくて、もっともっと馬鹿でどうしようもなくて、情けなくて呆れるような、軽蔑されても仕方ない様な理由のもので、自分の中で自己顕示欲みたいな何かが爆発したけどでも誰かに見せようとか見せたいとかそういうこと考えてやってるわけではないし、いつも隠してるものですし、なんていうか自意識がすごい。だから申し訳なくて申し訳ない。

 

何事も、軽い気持ちでやってしまうとズブズブはまってしまう性格だから。でもこれに関しては自分の中で「ここまで」っていうのがあって、そんなものがあるなら、やらなければいいのに。っておもいながら。悲劇のヒロインにでもなりたいのかっておもいながら。まぁこんなこと書いてる時点でアレ(どれ)なりたいわけじゃないはずなんですが。理由を探してるだけのはずでした。今ではよくわからん。